Menu

「おっ、あがった」

暗闇に浮かび上がる顔。
海の向こうから見える街の灯。
そして、夜空にくっきりと浮かび上がる花火。
数秒遅れて届く音。
夜の散歩と言いながら連れ出してくれた海岸線。
今日は、対岸での花火大会。

そんなことさえ忘れていた。

「ほら、ここからの眺めも悪くないだろ?」

優しく微笑む彼の表情に細やかな心配りが感じられて、あたしは思わず目を背けそうになる。
ここ数日のあたしを振り返る。そんなにまでひどかったのだろうか。
そこまで落ち込んでいたあたしを無理やりにでも外に連れ出してくれた彼に感謝をしながらも、どこかで気おくれしている自分。
こんな心情は、人としてまったく褒められたものじゃない。
だから、微笑む。頷きながら、精一杯微笑む。

「ほら、こっからが本番だ」

無邪気そうに対岸の空を指さしているそのはしゃぎっぷりは、傍目には本気でやっているのか演技なのか見分けがつかない。
もちろん、あたしにはわかってる。この人はいつもこうだ。
何も聞かずにあたしを助けてくれる。すぐに落ち込んでしまい、現実から目をそらそうとしてしまうあたしを。
再び自虐的な自己嫌悪がこみ上げてくる。
視線を落とす。履いているサンダルが滲む。

「ごめん。余計な事した?」

気が付くと、彼はあたしを見ていた。
慌てて首を振る。
そんなんじゃない。そんなんじゃない。うわごとのように心の中で繰り返す。
悪いのはいつもあたしだ。

彼の手が伸びて、あたしの手を握る。
あたしはそれをしっかりと握りしめる。
沈黙が訪れ、花火の音と波の音だけが聞こえる。
音。花火の音。
花火は遠くから眺めていると、あとから音がついてくる。
どこかで聞いた話。音のない花火。

「ねぇ、知ってる?」

涙声になっていないか不安だったけど、それよりも怖いものが心の中にわだかまり始めたのがわかる。

「ん?」

彼はもう花火を見ていない。

「音のない花火」
「いや、知らない。何それ?」

音のない花火。それは、非現実感を伴う美しい幻。

「やってみればわかるよ」

あたしは鼻をすすりながら、両手を耳に押し当てる。
彼も怪訝そうな顔をしながら、あたしの真似をする。

音もなく咲き、散る花火。
まるでテレビの音声を消して見ているような花火。
あたしの前とあの花火の間に、見えない壁があるかのような錯覚。
艶やかなまでに非現実的な光景。

気が付くと、彼に手首を掴まれていた。
あたしの目をのぞき込み、意識がここに戻ってきたのを確認すると、ゆっくりと首を横に振る。

「悲しい絵だね」

一言だけそう言って、彼はあたしの手首を掴んだまま対岸の花火を見た。

「花火ってさ、色んなものが重なって花火なんだってわかったよ」

寂しそうな横顔があたしの胸を刺した。

「暗い夜空、煙に隠れない程度の風、花火そのもの、そして音。全部合わさって綺麗な花火になるんだね」

そう、思い出した。音のない花火の話。
大事な音をなくしてしまった花火は、現実感を喪ったまま、自分とはかけ離れた存在になってしまう。
そして、そのまま、夜空に浮かび、闇に散って消えていく。

それがたまらなく哀しかった。

「どこにもいかないよ」

彼の手が手首から離れ、しっかりとあたしの手のひらを握る。
その途端に、音のない花火が哀しい理由が分かった。

現実が現実のものとは思えなくなり、一緒だと思っていたものが切り離され、存在自体が遥か遠くに遠ざかる。

この人がいなくなってしまったら、あたしはどうなるんだろう。
既にあたしの一部となってしまっているこの人がいなくなってしまったら、あたしじゃなくなってしまうんだろうか。

そんな不安をわかっていたかのように言われた言葉がずしりと重くのしかかる。
あたしは、音のない花火を見ている観客でもあり、音のない花火そのものでもあるのだ。

「うん」

強く握られた手を握り返すしかなかった。

「うん」

握り返した手の力に応えるようにして、彼が短く返事をした。

もう、沈黙は怖くなかった。
その言葉を信じるしかないのだから。
ただ、波の音と花火の音が周囲を満たしていた。
遠くで綺麗な花火が咲き乱れるのを眺めながら、その音を聞いていた。