同じ姿勢で座り続けていたせいか、体が重かった。
時計を見れば、丁度昼寝には絶好の時間。
勿論そんな余裕はないのだが、道理で体が休養を欲している筈だ、と納得する。
大きく伸びをすれば肘の関節が小さく鳴って、苦笑が漏れた。
特に運動音痴な訳でもなく、どちらかというとアクティブさを好む者としては何とも情けない事なのだが、この業務が今の自分の第一優先なのだから、如何ともし難い。
席を立った気配に気付いて、じっと一点を見つめていた彼女も顔を上げた。
「休憩?」
「あぁ、少しだけ」
そう答えて、彼女の座るソファに近づき、サイドテーブルのコーヒーメーカーから自分のカップにコーヒーを注いでいると、小さな軋みと共に、彼女が俺の座るスペースを空けてくれていた。
ありがとう、とお礼を言うと、彼女が下を向いたまま小さく頷く。
深く腰を下ろして、一度大きく伸びをした。そうしてまた、彼女に目線を向ける。
今日、彼女の手にあるのは本ではない。
小道具担当の団員に頼まれた物だと持って来たのは、厚い布で作られた袋。
自分に渡すよう頼まれた何かかと思ったら、中には某劇場が処分に困って倉庫の奥深くに放り込んでいたという、使い古しの小物がどさりと入っていた。
止めていた手をまた動かし、柔らかな布で熱心に小物の汚れを拭き取る彼女の横顔を見つめる。
『あなたが仕事をしてる間に、磨けばいいと思って』
その言葉を思い出して、少し嬉しくなった。
これだけの量をわざわざ担いで持って帰ってくるより、劇団の事務所で作業する方が彼女にとっても楽な筈だ。
自分はいつだって仕事があって、共に暮らしていたって、一緒に時間を過ごすというより同じ空間にいるだけになってしまっている。
それでも、”同じ空間” を少しでも長く共有する為に、彼女はここに居る。
例え、人が思い描く時の形と異なっていたとしても、自分達の過ごしている時間が無価値だとは思わない。
その時間にどんな価値があるかは、二人が決めればいい。少なくとも、彼女の答えは貰っていた。
「それ、いつまで?」
彼女の手元を見ながら問うと、ようやく小物を磨いていた手が止まった。
「ん〜、特に決まってない……けど……早ければ早い程いいんじゃないかな?」
埃や手垢を磨き落とされたゴブレットは、銀色に光っていて綺麗だった。
長きに渡って倉庫の中に眠っていたそれを元通りにするのは、相当の根気が必要な作業。
熱心にこびり付いた埃を拭き取っている姿に、案外、俺よりも、普段、舞台を所狭しと飛び回っている彼女の方が、ずっとデスクワークに向いているのではないかと考えて、何故か可笑しくなった。
「じゃあ、おまえも休憩」
そう言って、彼女の手からゴブレットと布を取り上げる。
「ちょ、待ってよ……私はまだ……」
追いかけてくる手を躱して道具を机に置くと、そのまま彼女に寄りかかった。
布越しに伝わる肩の感触に、体の力が僅かに緩むのが自分で分かる。
「……昨日、次回公演のキャスティング発表の後に、数人の団員に話があるって言われてさ」
そう言うと、押し戻そうと抵抗していた彼女が動きを止めた。
「突然、怒鳴られたんだ」
参ったよ、と続けて、苦笑する。
ちらりと横目で表情を窺うと、彼女はじっと俺の目を見つめたまま、次の言葉を待っていた。
「『今回こそは……そう思っていたのに、この配役は納得いかない』ってさ。『何を基準に配役決定してるんだ?』『自分の方が、この役には絶対適任だ。再考しろ』。挙句の果ては、『もしかして、賄賂でももらってんじゃないのか?』って」
「……」
「実際はもっとヒステリックでね。……正直、泣きたくなった」
男が泣くなんて、格好悪いかもしれないけれど、と、また苦笑する。
創立当初の団員は、俺の言動を一々説明して廻らなくても分かってくれる、そして、俺の判断に絶対の信頼を置いていると公言してくれている輩ばかりだった。
だからこそ、俺は団員一人一人をどんなことがあろうと信じたいと思い、俺が全てを取り仕切らざるを得なくなっても、必死で踏ん張って、よじ登って、這ってでも前進をし続け、時には、一見そうとは分からないとはいえ、自分の心を荒ませるようなズルイ手段を講じてまで、がむしゃらに突き進んで。
好きなことだからこそ出来たんだよな……と、自分でも苦笑せざるを得ないくらいの極限状態を全て、さも当たり前のことのように見せ続けていた。
ある意味、歪んだ日々。歪んだ存在。
劇団が大きくなり組織化するにつれ、当然と言えば当然だけれども、創立当初のような環境を持続するのは無理になり、別の意味で、俺が以前にも増して絶対的権限を持たざるを得ない状態に陥って。
そんな俺を守ろうと、彼女が悪役を買って出てまで、あるべき姿に収めようとしてくれているのに、肝心な俺の以前からの悪癖が抜けない言動が裏目に出ることが増えてきている。
黙ってそんな俺を支え続けてくれている彼女だからこそ、唯一無二で頼っているのか、それとも、ただ甘えているだけなのか。
今回の過剰な反感も覚悟はしていた。
だが、覚悟をしたからと言って何もかもを受け止められる程、卓越した理性は持ち合わせてなんかいない。
ここまで大きくなってしまうと、劇団という組織が主宰を作るのか、主宰が組織を作り上げるのか、どちらが先か明確には分別し難くなってくる。
ただ、忘れてはならないのは、一つの組織が形成される過程でトップに立つ者が生まれても、その逆であっても、組織を失えば、そのトップであった人間もただの人だという事だ。
皮肉な事に、人は組織がなくても指導者がいなくても生きていけるのに、人が集まれば組織と指導者は必ず生まれてしまう。
そうして人は指導者を崇める一方で、その者も一人の『人間』である事を忘れ、多大な理想を押し付けていく。
脚本を書き、公演の企画、演出を手がけ……他にもまだまだやる事はある。
ただの飾りになる気はないから、団員からの相談事や愚痴話も、時間が許すかぎり拒まない。
だが、自分一人だけが劇団を形成する柱であり、全ての実権を握っているだなんて思っていなかったし、思いたくもなかった。
「……それで、あなたは何て?」
「聞くだけ聞いて、色々説明はしたけどね。各キャラクターの設定の詳細と、配役の理由さえも全て。でも、分かって貰えたかどうか……」
自分は、全てを叶える力なんてない一人の人間だ。
それでも少しでも良い芝居を作れたら、と思ったから、劇団を創設し、ここにいる。
違うのは想いを行動に移した一点だけであって、自分もまた劇団という組織に組み込まれた一人の人間でしかない。期待をされるのは嬉しいけれども、全てを委ねられて一人立ち続けるのは無理だった。
「その人達には言いたいことが沢山あるけど、それより。あなた、少し怒りなさいよ」
窓の外に目線を投げながらも、自分の話を聞いていた彼女が、ゆっくりとこちらに向き直る。
「苦しいのを誰かのせいにしてるような人間の重みまで、あなたが背負う必要、どこにあるの? いい加減にやめなさいよ、そうゆうの」
その言葉に、うん、と小さく返事をして、もう少しだけ彼女に体重を掛ける。
言葉とは裏腹に、彼女が抵抗する素振りはない。むしろ自分を支えるように、押し返してくる力が嬉しかった。
「劇団の主宰だから? 纏める立場だから? だから、人の苦労や愚痴を全部背負うのも仕事?」
「……そんな、おまえが怒らなくても」
「私はあなたに怒ってるの!」
「うん、知ってる」
「……そうやって笑ってばかりだと、歪むわよ、性格」
「おまえも怒ってばかりで歪まない?……痛っ」
言い終わると同時に飛んできた拳に、頭を小突かれる。
『大変。可哀相。あなたは間違ってない。相手が悪い』
そんな言葉は初めから望んでいなかった。
同情が欲しいのではない。そんな反応をするような相手だったら、自分は絶対にこんな内面を吐露しない。
何もかも諸手で許して欲しいだなんて、彼女に望んでいなかった。
「あなたが怒らないから、私が腹を立てるんでしょう?」
「……うん、そうだね」
同情以外の何かが欲しかった。でも、何が欲しいのか分からなかった。
「狡いかな、俺」
「うん、狡いわ」
速攻で返された返事に、思わず笑った。
その場で怒れていれば終わっていたのに、怒れなくて自分の心に何かが引っ掛かってしまった。
今更怒ってみても手遅れだと分かっているのに、引っ掛かった物を消す方法が分からないでいた……いや、正確には彼女の感情を見るまで、あの時の自分が怒りたかったのだとさえ気付かなかったのだ。
自分の事が一番分かるのは自分である筈なのに、それが出来なくて、不明瞭すぎる感情を持て余していた。
そうして気付いた今、心を覆っていた雲も晴れて行く。
だから顔に浮かぶのは、怒りではなく笑顔。笑おうと思ったのではなく、自然と笑みになっていた。
「……何か、救われた気分だ」
そう言いながらもっと彼女に寄りかかってみるが、あっちに行け、と、すぐ押し返された。
それでも諦めないで更に体重を掛ける。
「そ、そんなに暇なら、こっちを手伝ってよ」
「嫌だよ。そういう作業は苦手」
「私だって苦手よ?」
「またまた」
くすくすと忍び笑いを漏らして寄りかかろうとする自分を、仏頂面で彼女が押し返す。
怒ってばかりの彼女と、笑ってばかりの自分。
感情表現が真逆になったのは、何時の頃からだったか。
今では、一緒に哀しむ事も、置かれた環境を共に憂いる事も出来なくなったように思う。
だが、出来なくても構わなかった。
真逆の言動を認めれば認めるほど、より深い繋がりを得、根底にある真の感情は同じだと確信できるから。
相手の気持ちに単純に同調する事の出来る人間は沢山いる。
でも、足りない部分を補い『合える』人間を探すのは、きっと難しい。
互いに足りない部分を、補完し合って。
そうやって俺達は、少しずつ前に進んでいる。